7月のワルシャワ便りは、食卓を飾る彩り豊かな野菜のお話。

遠きヨーロッパの街の、パステル画のポストカードのように淡く、夢のような情景。

筆者の感性の瑞々しさをも感じさせる、さりげない日常の断片。

さあどうぞ、ごゆっくりご鑑賞のほどを。


第二回:「八百屋の風景」


ワルシャワで眩しい季節の到来を感じさせるのは、何も街路樹の緑ばかりではない。木々が躍動する生命を誇示し出す丁度その頃、八百屋の店先にもフレッシュな野菜が並び始める。これが、新緑とはまた違った喜びをポーランド人たちにもたらす。

 ポーランドは北の国なので、冬の間に手に入る野菜類は、どうしても貧弱にならざるを得ない。しかし五月に入ると八百屋の店先も賑わい始め、六月、七月、八月と、暦とともにその表情を変えていく。
 それが、人々の心の底に沈んで眠っていた何かを刺激する。生きる、ということを無条件に肯定する。瑞々しい野菜たちの出現は、単に食卓のバリエーションを増やすと言うだけの問題ではないのだ。『生』のもっと深い部分と結びついている。

 ところで、ポーランドではまだ八百屋が健在だ。個人経営の小さな八百屋で、店のおばちゃんと「これ、甘いの?」などとやりとりしながら両手一杯に買い込んで行く。もちろんスーパーにも野菜が豊富に揃っているし値段も安いけれど、個人の八百屋のほうが新鮮で品質も良い。
 ということで、早速八百屋の店先を覗いてみよう。

 今まで店先に並べられていた前シーズンの野菜はすでに姿を消し、それに代わって獲れたての新野菜たちが初々しい姿を見せている。新ジャガ、新玉葱、新人参、新キャベツ。ありふれた野菜たち、奇をてらわない率直さ。
 これらの新野菜はどれもやや小振りで、皮が非常に薄い。水でさっと洗ってそのまま噛ると、さわやかな甘さと癖のない香りが口に広がる。それは新野菜の中に潜む、若々しい生命そのものである。
 新野菜は火を通しすぎないほうがいい。適度な歯応えが、言いようのない快感を僕たちに与えてくれる。野菜の中にぎっしりと詰まった生命の小さな粒々を、歯で砕いて体に与える心地よさ。体がうれしがっている。

 どんどん行こう。八百屋の店先を飾るのは新野菜ばかりではない。フルーツ類も溢れ出す。イチゴ、サクランボから始まって、季節が移ると杏(あんず)、スイカ、桃、スモモ、洋梨などなど、次々と出てくる。
 日本ではあまり目にしないものも多い。黒スグリ、赤スグリ、白スグリ、ブラックベリーにブルーベリー、グーズベリー、ラズベリー。なんだか訳が分からない。何度名前を聞いても、すぐにごちゃまぜになる。で、これらのフルーツ類が、どれもびっくりするような安い値段で売られている。
 イチゴなどは、旬には1キロなんと2ズロッチ(約60円)で売られている。先日など、1キロ1.5ズロッチ(約45円)で買った。朝摘んだばかりのイチゴが、木の皮で編んだ長方形のバスケットに入れられて、そこら中の道端で売られているのだ。これらのイチゴは、粒の大きさも形も不揃いで、中にはひしゃげたような不恰好なものも多い。けれど、うまい。安くて、うまい。

 僕の妻は日本にいた当時、イチゴの値に驚き、次にそれを不思議がり、仕舞いには日本人を哀れんだ。日本のイチゴは形がきれいに揃っていて見栄えがするけれど、気軽に食べられる値段ではないと。そして、見た目をあまりにも重視し過ぎると。
「野菜やフルーツは自然のものなんだから、形がばらばらなのは当たり前だよ。わざわざ高いお金を払って同じ形のイチゴを買うなんて、理解できない。不揃いだから、いいんじゃない」なかなか鋭いことを言うじゃないか。

 道端でイチゴやサクランボをどっさり買って、それをぱくつきながら歩くポーランド人。イチゴにはイチゴの、サクランボにはサクランボの季節がある。そして次の季節には次のフルーツがちゃんと待っている。
 長い冬には、夏の間に作ったドライフルーツやジャムなどを楽しんで、再びやってくる新野菜やフルーツの季節を待つ。

 日本は元もと野菜の豊富な国だ。その上、近年ではたいていの野菜が季節を問わず手に入る。売られている野菜やフルーツは美しい。そう考えると、日本は便利だ。間違いなく、便利だ。
 しかし、その便利さと引き換えに僕たちの失ったものが、確実に存在する。


勝 瞬ノ介
E-mail: gustav3@excite.co.jp
Website「ワルシャワの風」: http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5223/
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