ショパンと聞いてすぐにポーランドと思い起こせる日本人はどれくらいいるだろう?

幸いにも僕は個人的にワルシャワを訪れる機会をその昔持ち、ショパンの生家さえ訪ねることが出来た。

その道すがらの美しいワルシャワ郊外の田園風景の中を日本の旅行社がチャーターした団体用の観光バスは静かに進んだ。

しとしと雨が広大な緑の風景を濡らし、バスの中にはショパンの曲が流れていた。出来すぎの光景だった。

しかしその時ですら、ポーランドという国とショパンの関係を深く洞察した日本人が(僕も含め)何人いたか。

勝さんの今回の原稿は、その洞察を狂おしくも熱く語っているかのようだ。


第六回:ショパンの風景


ショパンはポーランド人である。けれど、そう言い切ってしまうにはちょっと引っかかる要素が、ないでもない。

 まず、ショパンがこの世に生れた1810年当時、ポーランドと言う国は地球上に存在していなかった。当時のポーランドは、国境を接する三つの大国によって分割されていたからだ。
 けれども、『ポーランド人』 がこの世から消えてしまったわけでは、勿論ない。彼らは国を失ってもポーランドの心を失うことはなかった。家庭の中ではポーランド語が話され、ポーランドの伝統と慣習がかたくなに守られていた。もちろんショパンの生まれ育った家庭でも。

 と言いたいところだが、実際、ショパンの家庭がどこまでポーランド的だったかは、分からない。と言うのは、ショパンの父親はフランス人だったからである。ショパンという姓も、実はポーランドにはない。
 ショパンは二十歳までをワルシャワで過ごし、残りの人生はフランスで送った。そして39歳で死ぬまで、二度と再びポーランドの土を踏むことはなかった。
 彼は、祖国を捨てたのだろうか…。

 ショパンはポーランド人にとって大いなる誇りである。父親がフランス人だろうと、二十歳でこの地を去ろうと、そのことに変わりはない。
 けれどもこれは、全てのポーランド人が日常的にショパンに親しんでいることを意味しない。正直なところ、ショパンの人気は日本のほうが高いくらいで、ショパンについての知識をほとんど持ち合わせていないポーランド人も、かなり多い。
 にもかかわらず、彼らにとってショパンと言う名はやはり特別な響きを持っている。それは、単に音楽史上に名を残す偉大なポーランド人作曲家だからと言う理由だけによるものではない。もっとポーランド人の心の深層に根差した理由がある。

 鉛色の空、昼を過ぎたばかりだと言うのにすでに薄暗い陰気な道、どんよりと垂れ込めた低い雲、底冷えのする空気。ショパンの音楽には、ちょっと陰鬱なそんな風景がよく似合う。
 僕は日本にいるとき、ショパンの音楽に耳を傾けることはなかった。妻がホームシックにかかる度に取り出すショパンのCDを耳にしては、暗くて陰気な音楽だなあ、と思う程度だった。しかし、こちらで暮らすようになってショパンは全く違う音として僕の耳に響くようになった。
 こちらで暮らし始めて一年ほど経った頃だったろうか、僕は薄暗い部屋で一人、ショパンの響きに身を沈めていた。外は猛烈な吹雪で、昼だというのにひどく暗かった。僕は気の重くなるような雑多な問題に思いを巡らしていた。そして突然、ショパンの精神に触れた。少なくともそんな気がした。

 ショパンの心の中には、常に祖国ポーランドがあった。しかしその祖国は、国としての形を失っていた。彼に帰るべき場所はなく、ただ遠いパリの地で故郷に想いを馳せるしかなかった。狂おしいまでの祖国愛。彼はその燃え上がる祖国への想いをひたすら音符に託し、珠玉の名作を生み出していった。自らの命を削るようにして。

 わがポーランド、わが祖国ポーランド! そうだ、他国の連中が如何にポーランドを蹂躙しようと、たとえそれが厳しい気候の土地であろうと、私にとっての祖国は、私の帰るべき場所は、世界中でたった一つ、ただポーランドだけなのだ!

 この烈しくたぎる想いを凝縮させて、ショパンは懐かしい祖国の自然を、そして苦難も栄光も共にあった波乱の歴史を謳ったのだ。民族の素朴な心を、人々の歓喜の声を、悲しみの嗚咽を表現したのだ。結核に冒され死を目前に見つめながら、最後の力を振り絞って謳い続けたのだ。

 ショパンはポーランド人にとって特別な意味を持つ。ポーランドを包む状況がどんなに変わろうと、どんなに烈しい時代の波に洗われようと、ポーランド人がポーランド人である、その核の部分は今も変わらず息づいている。それが消えない限り、ショパンは彼らにとって特別の意味を持つ。

 ポーランド人にとってショパンとは何か。そう、あなたの思う通りである。


勝 瞬ノ介
E-mail: gustav3@excite.co.jp
Website「ワルシャワの風」: http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5223/
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